haruichibanのおと(日々思ったことなど)

気の向くままに、ウォーゲームや本や映画やテレビ以外のことを、書き残しておこうというブログです。

平安時代の妻問婚への疑問

昔、古典の授業で、「平安時代は妻問婚だった。男は複数の妻と結婚していた。恋愛の最初は垣間見から始まる。そして歌を贈り、返歌がなければ振られた。返歌があれば、進展する。」のように習った。

 

これを聞いた時、「女の側なら嫌だなぁ」と思った。「現代でいう覗きとストーカーじゃん。誰か知らない人が庭の向こうからこっちを覗いていたり、知らない人から歌が届いたりしたら恐い。姉や妹や娘がいたら、とても恐くてかわいい身内がどこの誰に惚れられるのかと思うと可哀相しいたたまれない。本当にそんな風に恋愛していたのかなぁ?ありえないだろう。」と思っていた。

古典の先生に質問しても、「昔はそうだったんだ。」しか言わない。

 

「男の方も面倒だなぁ。歌を作って贈らなければいけないなんて。普通にプレゼントでよくないか?」と思った。

「男はいつまで親と同居していたのか?女の親は娘と同居していたようだから、男も結婚後、どこかのタイミングで正室と一緒に住んだのではないのか?お気に入りの女のところに住みながら別な女のところに通ったのか?」と疑問だらけだった。

 

ここからは想像になる。

通常、女性の住む所は防備を固めており、侵入者がないか見回りの者が厳重にチェックしている。

しかし、垣間見や歌を贈り合う前に、親兄弟や家来による根回しがあったのだろう。

根回しの上、「○○日の○○の刻、○○に来てください。見回りの者に○○と合い言葉を言ったら、垣間見しやすい所に通します。その時に歌を見回りの者に渡してくだされば女性のもとに届けます。」というような話ができてから、垣間見していたのだと思う。

 

夜這いの風習も実際には事前の同意があった上だったと聞いたことがある。

 

結婚後、女性と同居するか、親元から通うかは、男の気持ち次第だったのではないか?

実家が居心地よければ実家だろうし、女性の所が居心地よければ女性の所だったのではないか。

子どもが産まれたら一緒に住むことが多かったのではないだろうか

 

今年の大河ドラマ『光る君へ』が平安時代の貴族の話なので、そんな所も注目して見てみたい。