どんな社会でも、いつの時代でも、結婚制度があるようだ。
これが不思議でならなかった。
愛し合った二人が一緒に住むのなら、別にそれでいいではないか、と思っていた。
神様の前でわざわざ結婚式をやったり、人を呼んで披露宴をやる意味はない、と思っていた。
だが、親が年とり、病気になり、死んだことで、ようやく、結婚制度の意味ががわかった気がする。
結婚制度は、扶養の義務と権利、相続の義務と権利が誰にあるかを、明確にするための制度だと思う。
配偶者や子どもや孫や老親を、誰が扶養するべきか、誰に扶養の権利があるか、それに伴う相続の義務と権利が誰にあるかを、社会で明確にすることが、結婚制度だと思う。
人が病気になり入院したり手術することになった時、家族には医師が説明するが、家族以外には説明しない(できない?)。家族はその人を扶養する義務と権利があるからだ。
結婚制度を批判していた社会学者の上野千鶴子さんが、実は結婚していたのも、配偶者を扶養するためだったと推測する。
人が亡くなると、葬儀や墓の手配や遺品や遺産の整理が必要になる。それらを行うのも家族だ。家族から委任されなければ、原則として、第三者は行えない。
結婚制度をベースに今の医療制度や葬儀の手配が作られているからで、ゼロベースで医療制度や葬儀を決めたら、そうならないだろう、という意見もあるかもしれない。しかし、どうやって、意志を持たない患者や死者の意向を、医師や葬儀担当者は知ることができるだろうか?代理人の言葉の信憑性をどうやって証明したらいいのだろうか?
A氏の配偶者はB氏で、その親や子が誰なのか、明確にする必要があり、結局、結婚制度になってしまうと思う。
結婚制度や結婚式や披露宴は、「この人とこの人は夫婦で、扶養の義務と権利、相続の義務と権利がある」と、社会に知らしめるためにあるのだ。
そうだとすると、結婚のパートナーが異性である必要はない、別に同性でも構わない、と思う。一夫多妻や一妻多夫や多夫多妻だとややこしくて制度が破綻しそうだが、一人対一人のパートナー制だったら、世の中がひっくり返ることはないと私は思う。