もう、ひと月ほど経つだろうか
X(旧Twitter)で、「プラモデルの箱の中を店頭で見てから買う文化など最初からなかった!!」というのが流れてきた。
書いた人はどうやらプラモデルを手にしたのは、ガンプラが発売されてからの世代と私には感じられた。
私はガンプラが出る前にプラモデルを作っていたので、「プラモデルの箱の中を店頭で見てから買う」のが当たり前の世代だ。
少ない小遣いを少しでも有効に使いたいので、プラモデルは中身を見て自分の力量に合っているか、確認するのが当たり前だった。
ボックスや商品名は、人気のテレビ番組に似ていても、中味が偽物というのもよくあったので、よく確認するのが当たり前だった。
同じ商品でも、バリが少しでも少ないものを見定めて買うためにも、中味を確認していた。
店主と買い手が、ちゃんと中味を確認してから、売買する意味もあった。
ミリタリーミニチュアシリーズやウォーターラインシリーズだと、カラーを確認するために、設計図を見てどの色を使うか確認するのも当たり前だった。
ガンプラがヒットしてからは、徐々にプラモデルの箱の中を店頭で見ることができなくなっていった。理由は知らなかったが、どうやら箱の中味を入れ替えるような輩が増えたことが原因らしい。
私と同世代が「プラモデルの箱の中を店頭で見てから買っていた」とツイートしていた。
元のツイ主が「そうだったんですね。私がプラモに触れる前のことは知りませんでした。言い時代でしたね。」とでもツイートすればいいところを、「いや。そんな文化はなかった!」とツイートしたので、驚いた!!
自分が見ていない時期のことについてどうしてそんなに自信を持って主張できるのか?
もしかしたら、わざと反駁することで、「いいね」や「リポスト」を増やして、金儲けしようとしていたのかもしれない。
私はこのX上の動きを見ていて、「当時当たり前と思われていたことは、記録に残らない。記録に残らないがゆえに、誰かの一言によって歴史はこうして、作られていくのだなぁ」と思った。
もしこのツイ主が国民的なクリエイターだったら、また、もしガンプラ以前のプラモを知っている世代が全て死に絶えてしまっていたら、「プラモデルの箱の中を店頭で見てから買う文化など最初からなかった!!」が、「歴史的事実」として定着しただろう。
司馬遼太郎の小説によって、坂本龍馬のイメージは大きく変わった。
しぐさのような当たり前のことは記録に残らない。残らないがゆえに「江戸しぐさ」という言葉が作られ、「江戸しぐさ」が、実在したかのように語られたことがあった。
プラモデルの箱の中を店頭で見てから買っていたか、箱の中を見ることができなかったか、なんて実際には大したことではない。○○事件や○○戦争や歴史的な偉人の人生などと比べれば、どうでもいいことだ。
事の重要性は全然違うが、歴史や歴史の評価というものが作られていく過程をリアルタイムで見ることができた、と思った。
言語として残りにくい「当たり前」のことや、感情や習慣を意識して残しておかないと、後にとんでもない解釈をする人が現れて、とんでもない歴史を作り上げる可能性がある、ということを、今回のXでの一連のツイートを見て思った。